教会へ行こう
住所 〒790-0905
松山市樽味3丁目2-55
TEL 089-977-1173

日曜の礼拝はこのように行なわれています教会へ行こう!~日曜の礼拝はこのように行なわれています~

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。
 渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」(キリスト)
こんな時には教会へおいでください。
  • 心に疲れを覚える時・・・
  • 人生の意味を求めているとき・・・
  • 病気や死が恐い時・・・
初めて教会へ来られる方へ
  • 聖書の話を聞くには礼拝が良い機会です。
  • 予約や会費などは不要です。
  • 聖書や讃美歌は教会に用意されています。
  • 普段着でお越しください。お子様連れも歓迎します。
  • 強制されることは一切ありません。

いこいを求めて

人は必ずのどが渇きます。一杯の冷たい飲み物が、どんなにありがたいことでしょうか。 わたしたちの人生の旅路にも、オアシスが必要です。渇いた心をいやし、命に満たす、澄み切った水が豊かにあふれるオアシス――それが教会です。教会は、あなたの心のオアシスです。
神様は、人間が一週間に一度、必ずこのオアシスに来て、新鮮な水を飲み、新しい命に満たされるようにと、礼拝をお定めになりました。旅人がオアシスで憩うように、わたしたちはここで真の心の憩いを与えられ、新しい命に満たされるのです。

心に疲れをおぼえるとき…
他人にはわかってもらえないと感じているとき、また、他人から中傷され、非難されるとき、そしてまた、人生、仕事、家庭、対人関係に疲れをおぼえ、無気力になり、投げやりな気持ちにさえなりがちなとき。
そんなあなたをオアシスに招く方があります。
「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。」(マタイ福音書11:28)

わたしたちの心の底まで理解し、慰め、支えて下さる方――それがイエス・キリストです。 なぜなら、イエス・キリストは、神ご自身であられたのに、わたしたちのすべての苦しみ、悩み、痛みを味わい知るために、人間性をとってこの地上に下られたからです。
「キリストは、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。
(ヘブル人への手紙4:15~16)
自分のみにくさを嘆くとき…
わたしたちは、自分の願いに反して、他人を中傷したり、ねたんだり、うらんだりしてしまいます。そして、大切な友をさえ、失ってしまうのではないかと恐れます。
そのようなわたしたちの真相を、聖書は明確に指摘しています。
「わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。……そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。」
(ローマ人への手紙7:15、17)


この、すべてのみにくい罪の本質を「原罪」と言います。だれも、自分の力で、この原罪に浸透され支配されている自分の心を変えることはできません。
しかし、神に感謝しましょう。キリストはわたしたちの原罪をご自分の身に引き受けて下さり、十字架の上に身代わりの犠牲となって下さいました。わたしたちの罪はキリストに負わされ、代わりにキリストの命、神の命がわたしたちに与えられたのです。
「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」(コリント人への第二の手紙5:17)
「キリスト・イエスにあるいのちの御霊(みたま)の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。」
(ローマ人への手紙8:2)
人生の意味を求めているとき…
わたしたちは充実した生き方を求めています。しかし、真の人生の目的とは何かがわかりません。お金がすべてではないし、地位、名誉があればよいというわけでもありません。
わたしたちの心は、神以外のものでは、真の満足を得ることができないのです。神様が、わたしたちをそのようにお造りになったからです。
聖書ははっきりと教えています。
「無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。」(ルカ福音書10:42)
「イエスは立って、叫んで言われた、『だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水(神の命、聖霊)が川となって流れ出る。』」(ヨハネ福音書7:37~38)
病気や死が怖いとき…
死は人間の最後の、最大の敵です。涙も悲しみも、死という最大の問題から起こってきます。 しかし、ただひとり、死に勝利を取ったかた、それがイエス・キリストです。
十字架の上に、わたしたちのすべての罪を背負い、死なれたイエスは、三日目に復活されました。それは、イエスが復活であり永遠の命である方、神ご自身であることの証明でした。 このイエス・キリストを自分自身の命として、心の内に迎えるとき、わたしたちは死に対して完全な勝利を得ることができます。永遠の命に生きる者と変えられます。 これこそ、聖書が示している救いの核心です。
「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか。」(コリント人への第一の手紙15:55)
「イエスは……言われた、『わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。』」(ヨハネ福音書11:25~26)
 

あなたもぜひ、この心のオアシス――礼拝においでください。
そして、喜びにあふれた、新しい一歩を踏み出されますよう、心からお祈りいたします。

では、実際に教会の中へ、一歩入ってみましょう。日曜日、礼拝はどのように行われているのでしょうか。

カルメル教会では、日曜日の朝10時15分から礼拝が行われています。まず正面玄関を入りますと、ホールに受付があり、係の人が迎えてくれます。聖書や讃美歌をお持ちでなければ、そこで借りることができます。
目の前に扉があり、その向こうが礼拝堂です。どうぞ遠慮なくお入りください。座席はどこに座っていただいても構いません。静かに祈りの心で開会を待ちましょう。会堂にオルガンの音が響くといよいよ礼拝の始まりです。

礼拝はこのように

1 オルガン前奏と聖歌隊入場
聖歌隊が祭壇に向かって進みます。聖歌隊と共に心の中で神の御前に進み出ましょう。
2 オープニング(開会)賛美
聖歌隊が開会の讃美歌を歌います。
3 会衆賛美
会衆一同で、神を讃える讃美歌を歌います。あなたもご一緒にどうぞ。
4 主の祈り
「祈りを教えて下さい」との弟子達の願いにこたえて、キリストが教えられた有名な祈りです。讃美歌の見開きに印刷されていますので、最初はそれを読みながら、お祈りください。
5 使徒信条(クレド)
教会の最も古い信仰告白で、キリスト教信仰の要約です。こちらも讃美歌の見開きに印刷されています。
6 聖書朗読
その日のメッセージのための聖書の言葉が、司会者によって読まれます。
7 祈り
この時は、祈祷文によらず、信徒が自由に祈ります。「わたしの名の唱えられるすべての場所で、わたしはあなたにのぞ臨み、あなたを祝福する」と神は約束してくださいました。 祈りの中で、「我は主なり」、「神は愛なり」など、神の御名(みな)が唱えられるのはそのためです。
8 聖歌隊賛美
その日の礼拝にふさわしい賛美がささげられます。
9 説教(メッセージ)
説教はプロテスタント(新教)教会の礼拝の中心です。
そこでは牧師個人の思想や神学ではなく、神の御言葉そのものが語られ、解説されます。
御言葉に導かれて礼拝がやがてクライマックスを迎えるとき、説教者の内からキリストご自身が、「我は主なり」、「神は愛なり」と御自身の御名を啓示し、会衆もそれに合わせて御名を呼びます。神と人が出会うのは正にその時です。
はじめて教会に来られる方は、教会は静かな所、というイメージをもっておられる場合が多いと思いますが、聖書時代のオリジナルの教会は決してそうではなく、キリスト者は「御名を呼び求める人たち」と言われていました。 はじめは、少し戸惑いがあるかもしれませんが、あなたも、周りの人を意識せず、純粋な心で神の御名を唱えてみてください。 「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」(ローマ人への手紙10:13) と聖書に書いてある通り、イエスを神・救い主と信じて御名を呼ぶ人の心に、神ご自身が来てくださるのです。
10 会衆賛美と献金
讃美歌を歌っている間に献金をいたしますが、献金は信徒が神の恵みに応答して自由に行なう礼拝の一部分ですから、新しい方も全く自由です。袋をそのまま隣の人に回していただいて結構です。
11 献金の感謝の祈り
信徒役員が祈りをささげます。
12 頌栄(しょうえい)・祝祷(しゅくとう)

神への讃歌と牧師による祝福の祈りがささげられ、礼拝が閉じられます。後は連絡や報告の時間ですが、通常はごく短時間ですので、少しだけお待ちください。礼拝後は牧師に出会い、個人的な質問などなさる良い機会です。またこのあとの聖歌隊練習に加わって下さる方があれば、それもまた大歓迎です。

さあ、これで準備はできました。
次の日曜日には教会の扉を開いてみましょう。みなさんのご来会を心よりお待ちしております。